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★ バジリカータワイン地図
Basilicata
DOC 3

| Vini DOC DOCワイン |
1.アリアニコ・デル・ヴルトゥレ
Aglianico del Vulture
2.テッレ・デッラルタ・ヴァル・ダグリ
Terre dell'Alta Val d'Agri
3.マテーラ
Matera
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オススメワイン
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ヴィーニャ・デッラ・コロナ[2001]テヌータ・レ・クエルチェ 750ml

バジリカータについて
イタリア半島、長靴の土踏まずに当たる州。その大きさは約9930平方
キロメートル(因みにシチリアは25700平方キロ、プーリアは19400、
兵庫県は8400)。
南はターラント湾でイオニア海に、西はポリカストロ湾でティレニア海に
接している。全海岸線の長さは約59,2km、北はカンパーニア州と
プーリア州、南はカラブリア州と接している。ビザンチン統治時代に
バジリコス(=Basilikos王の密使)によってに治められたことが名前の
起源。バジリカータは、「ルカーニア=Lucania」とも呼ばれるが、
その語源はラテン語のルクス(森=lucus)とも古代の民リキ(Lyki)
とも言われる。
全土の46,8%が山、45,2%が丘陵、8%が平地。
気候は、内陸の高地が大陸性の気候、海岸沿いは地中海性気候。
山間では、冬が非常に厳しく、雪も多く降るが、夏は短いが非常に温暖。
一方、比較的低い丘陵地と平地では、冬は比較的寒くないが、夏場は
酷暑となる。
降雨量は場所によって様々で、平均すると年間500mm。ほとんどが
秋に降り、7,8月はほとんど降らない。
バジリカータ州のDOC生産地域
@ アリアニコ・デル・ヴルトゥレ Aglianico del Vulture
A テッレ・デッラルタ・ヴァル・ダグリ Terre dell’Alta Val d’Agri
バジリカータワインについて
極最近テッレ・デッラルタ・ヴァル・ダグリがDOCに認定される前は、アリア
ニコ・デル・ヴルトゥレが唯一のDOCであったが、その平均的な質の高さ
では「イタリア屈指」とも言われその個性と共に世界的な注目を集める。
テッレ・デッラルタ・ヴァル・ダグリはフランス品種を主体にした品種構成で
そのポテンシャルはまだ未知数。
2005年より3つ目のDOCマテーラが加わった。赤はプリミティーヴォを
中心にしたもので、「マテーラ・モーロ」はカベルネを主体にしたワインで
プリミティーヴォとメルローを一部ブレンドする
。
白は、マルヴァジア・ビアンカ・ディ・バジリカータとグレコ主体でスプマンテも
ある。
◎ 固有ブドウ品種
(白) マルヴァジア・ビアンカ・ディ・バジリカータ種
(赤) アリアニコ種
マルヴァジア・ネーラ・ディ・バジリカータ種
◎ 優良ワイナリー
アリアニコ・デル・ヴルトゥレのパイオニア的な存在はパテルノステル社、
そしてダンジェロ社。新興ワイナリーでも傑出したアリアニコを生み出す
のが、テッレ・デッリ・ズヴェーヴィ社、レ・クエルチェ社、そしてカンティーネ
・デル・ノタイオ社である。
◎ バジリカータの歴史
旧石器時代の後期に、その頃存在した多くの湖周辺に住居跡が
発見されており、特にヴェノーザ遺跡はイタリアでも最重要レベルに
あります。
農業改革と牧畜が誕生したといわれる新石器時代には防備の
行き届いた集落ができるようになり、青銅器時代にはティレニア
海側とアドリア海側文明の交差点となります。
紀元前1300〜1200年の鉄器時代にはアナトニアからの移住民
リキ人が、高い文明を持ち込み、このリキがルカーニアという名前の
語源となる。
また、紀元前8世紀になるとイオニア海沿岸部のメタポントを始め
多くの町がギリシャ人によって植民地化されていきます。ルカーニア人
(と呼んだのはギリシャ人)はギリシャとの衝突の中で軍備を強め、
ギリシャの街やブルッティイと呼ばれた現在のカラブリア地方にも
勢力を拡大します。
またサムニウム戦争と呼ばれる中部イタリアでの戦争に、ローマの
同盟軍として、そして最後にはポエニ戦争でハンニバル軍に付き
ローマの敵として参戦します。
この敗戦によりローマは多くのルカーニア人を奴隷化しました。
その後スパルタクスの反乱にも手を貸したルカーニア人はローマの
厳罰に処され、ブルッティウム(カラブリア)の一部に編入されます。
そして人々は、マラリアに侵された沿岸部の街から極貧状態で
内陸部の山間に居留地を移します。この頃ヴェノーザ人であった
詩人のホラティウスはバジリカータを去り、故郷を去り二度と戻ら
ない移民現象は今日まで続くことになります。
帝国崩壊後は西ゴート族と東ゴート族、その後サラセン人が侵入
またロンゴバルド族、ビザンチンの戦場にもなります。
11世紀、ノルマン人はバジリカータの地理的な重要性を重んじて
メルフィに都を置きます。第一次十字軍遠征を教皇ウルバニウスUが
宣言したのもメルフィでした。
アンジュー家の支配になるとイオニア平野や川沿いがマラリアに侵され
人口が著しく減少し、スペイン総督時代にもペストや天災が重なり
一時25万人まで住民は減り続けます(1736)。
17世紀中ごろからバジリカータは反スペイン運動に参加し高い地位を
得ます。その後ナポレオン共和国防衛に組して、聖職者至上主義にも
立ち向かいます。
短いナポレオン統治時代に革命を掲げる地下組織運動が盛んになり、
他のどの地方よりも自由主義運動が経済社会的運動の性格を帯びます。
実際にブルボン支配時代、極限られた貴族、教会、王族の手にあった
土地を奪還すべく、中産階級と農民たちが戦いました。
イタリア王国はバジリカータ人にとって大きな希望となりましたが、ブルボン
王朝時代の貴族たちはすぐさま自由主義者となりすまし、システムを
維持します。このことへのプロテストが盗賊集団を生み、それが社会
階級闘争の様相を帯びます。
イタリア王国は軍隊をもってこれを鎮圧しますが、問題を解決することは
ありませんでした。
1904年の法律はバジリカータを貧困から救うものでしたが、ここでも
官僚主義の妨害と第一次大戦の勃発によって改革は遅れます。
移民現象は重大で、1861年から今日まで実に60万人がバジ
リカータを離れたといいます。
ここ数十年の間に貧困対策の改善はありましたが、州を苦しめるのは
常に経済です。第二次大戦後に農地改革があり農民たちに土地
所有が認められますが、収益はイタリアで最底辺にあります。
メタンガス層の発見とふるい石油層の発見は、南部開発基金とともに
いくつかの工業地帯を開いていきますが、生活水準の実質的向上
にはまだ結びついていません。
文化的に欠かすことが出来ない大学の欠如、移民による頭脳の流出
あきらめというメンタリティーがイタリア経済に追いつくことのできない原因
となっています。
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