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シッカリ・ヨンダリ〜ナ
ヴィーテ・イタリア高岡 プロフィール
1.履歴書
2.映画 チネマ
3.イタリア
4.わが町 近江八幡
curriculum vitae
私の履歴書
1967年3月30日 兵庫県西宮市池開町に生まれる
(因みに病院は阪神タイガーズ御用達「明和病院」)
兵庫医科大学病院の麓の古いアパートでした。
長屋文化の最後の名残ともいうべきコミュニティーが
ありましたねえ。大家のおばちゃんにウンチ拭いて
もらったりしましたもん(^^;)
1977年12月 父の転勤に合わせ滋賀県蒲生郡安土町に引越し
安土町立安土小学校→安土町立安土中学校
今の僕の生き方に決定的な方向付けを与えたのが滋賀への
引越しでした。引越し当初は地元のクラスメイトを”田舎者!”
と罵倒しておりましたが・・・今ではイタリアに行っても自称
滋賀県人ですし琵琶湖とその周りの山々、そして長閑な田園
風景と清らかな川の流れを愛しています。滋賀に生きていて
良かった!とつくづく思います。
1985年3月 滋賀県立八日市高校卒業
フォークの神様 岡林信康、映画監督 出目昌伸 が先輩に
あたります。3年生のときは、左翼系(?)の個性的友人に恵
まれその後の僕の一風変わった生き方の原点ともなりました。
クラブ活動では、バドミントン部キャプテン。弱小チームが
団体で県3位にまで上れたことが”努力⇒自信⇒幸せ”という
気持ちの財産になってます。
京都産業大学入学には頭ではなく、内申書(クラブ活動成績)
がものを言ったのでしょう。受験勉強しませんでしたから(^^;)
1985年4月 京都産業大学外国語学部イタリア語学科入学
中学の頃から映画に魅せられて、それがイタリア映画との
出会いに発展したのがきっかけでした。⇒読売新聞で扱われました。
「さすがに大阪外大、東京外大は無理でした(^^;)。
大学一年の時に規律厳しい大学寮、体育会バドミントン部
そして、ハードなイタリア語修行をクリアできたことも自信に
なりました。今思えば一番自分を鍛えた頃かもしれません。
勉強でしごきまくってくれた現京大大学院教授の斉藤泰弘先生
には大感謝ですね。
1987年2月 第一回 イタリア滞在 語学短期留学 フィレンツェ
1ヶ月のフィレンツェ語学学校・・・惨憺たる出来でしたが
すごい自信と刺激になりました。今と違って周りに日本人が
いないわけで・・・。
変に筆記試験にだけ強い日本人のご多分に漏れず上級
クラスに入れられて周りの外国人は皆ほとんどペラペラ
状態でしたから、完全に落ちこぼれでした。
でも先生とクラスメイトがすごくサポートしてくれて最後には
なんとかコミュニケーションが成立していました。
3日目のレッスンの時、あまりに何も分からなかったのでクラスを
変えてもらうように皆の前で先生に頼んだんです。
「足を引っ張ってしまう。迷惑をかけたくない」と。
そしたらクラスメイトのオーストラリア女性が強い調子で
こう言ったんです。
”あなたはここにいなさい!分かるようにするのは先生の義務
なの。分からないことがあったら全部私達に聞きなさい!!”
まあ正直驚いたというか、迫力負けしましたね。当時僕が19歳。
オーストラリア女性が確か23歳でしたけど・・・・。
「わかりました。ここに残ります・・・」
もう即答していました(^^;)
彼女には本当に感謝してます。
4月 イタリア文化研究会Purgatorio立ち上げ
ピランデッロの「もう一人の息子」を日本イタリア京都会館に
てイタリア語で上演
帰国後は突っ走ってましたね。語劇をするパワーもどこから
生まれたんでしょうか。また大阪外大のクラブも巻き込んで
上演したのはやはりパワーがあったんでしょう。
1988年10月 外務省派遣員試験に合格 在イタリア日本国大使館
(ローマ)に赴任
実は前年にミラノ領事館の最終試験で落とされたという経緯が
ありましてリベンジ的な意気込みはありました。
でも当時、イタリア語を勉強している人なんか芸術系の人ばかり
でしたし、NHKの語学講座もなかったので競争率は極めて
低かったのです。もう、大ラッキーでした。
車を買って、モンテマリオというちょっといい感じの住宅地に
マンションを借りて、優雅な生活でしたね。
大使館での仕事は旅行業のようなものでした。日本の省庁
から様々なゲストが来るので、その出迎えの準備等の後方
支援、そして現地イタリア人職員と日本人外交官とのつなぎ
役でもありました。
税金を湯水のごとく使う外交官。それも外交に使うのではなく
自分達が日本に帰ってからの地位固め、あるいは既得権益の
死守ために日本からの特に大蔵省からのゲストにはすごい
もてなしをしたものです。
逆に現地職員とは仲が悪かったですね。冷めた関係というか。
(はっきり言って板ばさみの僕のポジションは辛かったです。)
当時の僕には、そういう外務省の悪いところばかりが目につき
ました。だから仕事の2年間としては非常にうんざりさせられる
ことが多かったのです。
ローマの大使館では歴代で初めて任期を更新せずに帰国した
派遣員だったそうです。
それにしても財政的に潤沢な状態でイタリア滞在を2年も
できたことは、僕にとって幸せ以外の何ものでもありません。
当時のローマの友人とは交友関係が続いていますし、ローマ
での記憶はすべて僕のかけがえのない財産です。
1990年12月 2年の任期を終え帰国
言葉ではない、本当にはらわたにどっしりと来るような
激しいカルチャーショックを覚えました。
「街の景観が信じがたいほどに汚い!」
「家の天井が迫ってくるぐらいに低い」
「酔っ払いのサラリーマンが異様に多い・・・」などなど。
でももちろん良いところも!
帰国して数日後に食べた刺身としその香りで「あ〜、日本に
帰ってきた!!」と実感したのを覚えています。
あと、やっぱり風呂はいいもんだなぁ・・・・と。
1992年 大学卒業
7年もかけとるんですわ・・・・親に感謝ですね。
1993年 「映画批評」でのイタリア留学のためロータリー財団試験に
挑むも「補欠」
断念し映画館の上映やテレビ番組制作のAD、イタリア料理店で
のサービスマン、通訳業などを掛け持ちながらいわゆる「フリー
ター」の走りになる・・・・
ボランティアスタッフをしていたのは京都の四条大宮「スペース
ベンゲット」、ADを経験したのは越前屋俵太の「モーレツ科学教室」
です(^^;)(今でも時々「あの番組見てました!!」って言われます。
結構知る人ぞ知るキミョーな深夜番組でした)
この頃は将来に対して意気消沈の時代ですね。
ひとまず映画関係の仕事や勉強をあきらめて、何らかの形で
イタリアに戻りたいと言う思いが強かったです。
でも、映画以外で「これ!」というものがありませんでした。
ちょうどその頃アルバイトしていたのが京都のイタリア料理店です。
元々料理は大好きだったのですが、ホールを任されるようになり
サービスの世界に魅せられていきます。
「美味しい!」という感動を直接伝えて貰えたり、またこちらの気遣い
によって食事のペースが決定されてそれがレストラン全体のリズムや
雰囲気になっていくこと、サービスする側とされる側の独特の
「共犯関係」がとても気に入ったのです。
そこから必然的に「ワイン」の世界に目覚めていったのです。
1994年10月 再びイタリア、ローマへ
イタリア・ソムリエ協会プロフェッショナルソムリエコースに入学
「日本人としてはじめてのソムリエになる!」という目標を胸に入学
しました。ところが実際には本部のミラノにすでにサントリーの林氏や
ホテル・ド・ミクニの小谷氏など尊敬すべき方がもういらっしゃいました。
正直言って、専門用語や独特のローマ方言も飛び交う中、自分の
ペースを見出して勉強するのは大変でした。
1995年 黒澤明のフィルモグラフィーを伊語に翻訳
il tenno i film di Akira Kurosawa として出版される
元々映画好き、それも黒澤好きが高じてイタリアとの付き合い
が始まった僕にとってこの経験は格別なものでした。
「イタリアにおける日本年」で企画された「黒澤明回顧展」に
あわせて出版されたものですが、急なリクエストで夜も寝ずに
訳した記憶があります。
ローマ「アガタ・エ・ロメオ」、サルデーニャ「ラ・コルンベッラ」
にてソムリエ修行。
この二つのお店で経験したことは、日本にイタリア料理や
ワインを伝えることの本質というものを僕に教えてくれたと
思っています。
つまり表面的でない奥の深い哲学的な意味での精神性の
部分です。
1996年3月 プロフェッショナル・ソムリエとして協会より認定を受け、帰国
ソムリエの認定を受けるためには第一課から第三課までの
試験にパスし、その上で最終試験に合格しなければなりません
でした。
最終試験では口頭試問が重要視されていました。
まず女性試験官がこう僕に訊いてきました。
「あなた、どこの地域のワインが好き?」
僕
「全部好きですけど・・・・あえて言うならピエモンテの
ワインでしょうか・・・」
「じゃ、ピエモンテワインについて話せることを全部しゃべって!」
こんな感じでしょうか。僕は、DOCの名前から葡萄品種、そして
生産者の特徴やピエモンテワインの現状について、色々と
つたないイタリア語で話しました。
試験官
「調理法とワインの相性についての相関関係について話して!」
僕
「ハァ?スイマセン。質問の意味が分かりません」
試験官
「例えば、グリルとはどういう調理で食品に味覚的にどういう影響を
与えるから、ワインはこういうワインが合う、とか、そんな話よ」
僕
「あ、なるほど、分かりました。〜〜〜〜」
こんな感じで決して問題は難しくはないのですが、徹底的に
しゃべらせるんですね。
とてもヨーロッパ的なやり方だな、と感心しました。
1996年〜2000年 京都のイタリアンにてソムリエとして働く
その間に結婚し、長男を儲ける
華々しい「ワインブーム」の時代でした。
最初の店ではテレビ取材もありましたし、外でのワインセミナーの
依頼もたびたびありましたし、120人ほどを前にテイスティング会を
したこともありました。雑誌にもよく載りました。(未だに、「え?あの
高岡さん?」と言われることもあります)
田崎真也さんの世界一受賞。そしてポリフェノールに端を発する
赤ワインブームの時代です。
2000年 ソムリエを辞め、主夫業、育児に専念
その傍らで「ワインセミナー」「料理とワインのイタリア語講座」を
独自に開講
結局は、イタリアが僕から映像の世界やレストラン業の世界を
断念させたようなもんです。もちろん僕の至らないところや性格的な
弱さもあるのですが、これらの世界がやたらと「根性」を強いて
くること。そして働き方の柔軟性が全くないことに違和感を感じ
ました。
それに元々僕は「主夫」をしたいと思っていました。
子育てして家族のために炊事、洗濯をして・・・・そんな世界が今でも
大好きですから。
2002年 ピエモンテの旅をコーディネート。
スローフードのお祭り「サローネ・デル・グスト」やトリュフを満喫する。
2003年 ヴィーテ・イタリア立ち上げ
【スクール部】【イベント企画部】
【旅行部】【出版・音楽映像部】
【コンサルティング部】
南イタリアへの旅をコーディネート
バジリカータを中心に食紀行を楽しむ
2004年 4月20日(火) 長女誕生 → 親バカ日誌「誕生の瞬間」
オリジナル企画「ワインライブ」始める!
2005年 読売新聞日曜版で取り上げられる
「イタリアワイン美術館」
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CINEMA 映画 チネマ
「この人のコメントにはどうしてこう映画の話が多いのだ!」
と半ばあきれてしまった方もいるかもしれない。
ソムリエとして働いていた時代も、お客様と映画の話に夢中に
なってしまい、同僚に随分と迷惑をかけたものだ・・・。
自分の中での映画の位置づけは、
ワインの前にイタリアがあり、
イタリアの前に映画がある
つまり、僕が僕であるという価値は、映画を愛する事によって
その形を成し始めたのです。
あれは中学2年の頃だったと思うけど、だから1980年だな、
大体僕の趣味というものは、他人の真似ばかりだった。鉄道ファン
に始まって、スーパーカー、そこから派生した写真ファン、どれも
これも他の友人から影響を受けて好きになって、そして時間ととも
に飽きて忘れていく・・・。おそらく、自分でも個性的なキャラクター
だとは思わなかったし、友達から見ても「普通」風だったんだと思う。
母親からも「あんたの趣味は友だちの真似ばっかや!」と揶揄された
もんだ・・・・。
その頃、マスコミで話題になっていたのが、
『黒澤明が、「デルス・ウザーラ」から5年ぶり、「どですかでん」から
10年ぶりに日本映画として、ようやく新作を発表。な、な、なんとコッ
ポラ、ルーカス、スピルバーグが製作協力!!』
という「世界のクロサワ」の「影武者」に関する情報で、新聞でも
1ページものの掲載で「公開まであと〜日」みたいな宣伝がされ
ていた。
黒澤明との衝撃的出会い
CMでも頻繁にこの映画「影武者」のPRが行われるようになり
「なんだかすごい映画が来るんだ・・・」
という思いで、マスコミの騒ぎにそのまんま乗っかる格好で
僕もこの映画に興味を抱き始めていた。
そして映画館で歴史的な出会いに遭遇する事になる。
「なんじゃ、この映像美は!!」

影武者
おそらく黒澤後期のカラー作品の中でも群を抜いて美しいのが
この「影武者」だろうと思うけど、それにしても武田信玄の軍勢が
溶けてしまいそうなほど凄まじい夕焼けの中を行進するシーンは
(淀川長治さんは「エイゼンシュタインかと思った!」と狂喜されて
いる)涙が出るほど美しくて、そのシークエンスを見るだけで僕は
胸が一杯になってしまって、この感動のためには!と映画館に
(当時は彦根協映という廃れた映画館に観にいっていた)、10回
も通ったのだった。
当時はビデオがようやく出始めた頃で、レンタルビデオという言葉
も概念もなかった時代だから一回一回が真剣勝負で、僕は脚本まで
買って、シナリオまで覚えてしまうほどこの映画に惚れてしまった。
黒澤の作品は年代順に全部言えたし、撮影者、音楽、
脚本、キャストまで覚えていた。
今思えば、若気の至りと言おうか、初恋の、それも一目惚れ的な
感覚で前後の見境もなく、ただ「好き!」という気持ちが先行して
ひたすらに黒澤明の世界に浸ろうとして、いろんな評論を読んだり
(「作品も見ないくせに!笑)、原作となる小説を読んだり(黒澤と
出会わなければ僕は一生小説なんか読まなかっただろう・・・)、
まだ見ぬ黒澤作品にワクワクしたものだ。
このワクワク感は、今まだ知らぬワインに出会うときの感覚と
まったく同じだ、変わっていない。
この時の映画に対する憧れや好奇心、集中力は当然、いつしか
「映画監督になりたい」という思いに変わってゆく。そしてマニアックに
なればなるほど、若気の至り決死隊の常で、ハリウッド映画を軽蔑し
ヨーロッパ映画に傾倒していく・・・。
名画座といえば「祇園会館」「京一会館」。
中学3年のときは日曜日の卒業制作の日にどうしても「アラビアの
ロレンス」と「カッコーの巣の上で」の2本立てが見たくて(ナンチュウ
組み合わせや!!)学校をサボって一人で祇園会館に観にいき、
翌日は教室で凄まじいブーイングだったことを今でも思い出す。
しかし、「アラビアのロレンス」の最初の砂漠シーンであの
モーリス・ジャールの音楽が壮麗に響くいたときは鳥肌で死ぬかと
思うほどだったし、「カッコーの巣の上で」は上映中笑いと緊張の
連続で上映終了と共に映画館中が大拍手、そして所々に見られた
カップルが感動でキッスをしあったり、抱擁しあったりしていて、
僕は映画の楽しさのみならず、映画館の楽しさをも体感して
いたのだった。(それにしてもあの時の祇園会館の雰囲気は
最高だった。今思えば、当時の日本には、50〜60年代の映画
黄金時代の名残がまだほんのひとかけらだけ存在していた
のだろう。今では考えられないんじゃないか。子供の「ウルトラマン」
とか、「ドラえもん」ぐらいかな、熱気があるのは・・・)
その頃はっきりと自覚しだした。
「あ、映画好きなの僕だけだ。これこそ僕のオリジナルだ!」
「1900年」へ
「1900年」を考えただけでエンニオ・モリコーネのテーマ曲が僕の
脳裏に流れ、デ・ニーロやバート・ランカスター、ドナルド・
サザーランド、ドパルデュー、ドミニク・サンダ、アリダ・ヴァッリ
などの名優たちの顔が鮮明に浮かんでくる。(映画ファンの方
たちにとっては垂涎のキャスティング!!)
そしてストラーロのキャメラ・・・。
もうため息しか出ないよぉ・・・・

1900年(1.運命の出会い/2.宿命の1900 NOVECENTO
「1900年」は1977年のイタリア・フランスの合作映画で前編と後編
の2部に分かれていて、日本以外の全世界では一部と二部を分
けて公開されたちょっと変わった作品で、イタリアの1901年から
(オペラ作家のジュゼッペ・ヴェルディの死がファーストシーンになる)
1944年のファシズム崩壊までの大河ドラマ。
前編,,後編合わせてで5時間20分ある!
で、前編、後編が初めて一挙公開されたのが日本で監督の
ベルトルッチが狂喜して日本に飛んできた、というエピソードもある。
1983年、確か高校2年のとき、ついにその映画が京都に来た!
「祇園会館」に飛んでいくと、
なんと四条通まで列ができていた!!
休憩を挟んで5時間20分の映画を一気に観た。
もう息つく暇もないくらい(第一部は立ち見だったけど)あっと
言う間に映画は終わっていた・・・・。
殺しの場面が美しい
麦畑が反射する光が美しい
縦横無尽に動きまくるキャメラが美しい
人間の狂気が美しい
エロチックなシーン、えぐいシーンがたっぷり出てくるのに
そこにはヤバイぐらい美しさが漂っていた。
そしてまたラストが全くの意外。
なが〜い時間の流れを扱った映画がその分なが〜くなって
いるわけなんだけど、ラストシーンでその時間の流れが
パッと無化してしまう。(ベルトルッチは「ラスト・エンペラー」でも
同様の仕掛けを作っていた!)
あっけに取られるしかないような驚き!
これこそ映画の魂!!
(詳細はビデオで見てね!)
わぉ!自由だ!!
ベルトルッチだけではない。「81/2」のフェッリーニ、「夏の嵐」「白夜」
のヴィスコンティ、「父・パードレ・パドローネ」のタヴィアーニ兄弟、
「エボリ」のロージなど、高校時代に見たイタリア映画は凄まじい
ばかりの個性的魅力を放っていた。この突き抜けて個性に富んだ
魅力は何じゃ!?というのがイタリアを意識しだしたきっかけ。
イタリア、エエ感じや〜!
他に受かるところがなかった、といえばそれまでだけど、この体験
が引き金となって僕は京都産業大学のイタリア語学科に籍を
置いてしまう・・・・。
本格的にイタリアと付き合いだしたわけだ!!
「よっしゃ!イタリア留学してイタリア語マスターして
イタリア映画に関わる仕事をするぞ!!」
という意志を秘めて僕はせっせとあの山の上の大学に通った。
で、今、イタリアワインのお仕事してます・・・・。
なんでやねん!!
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Italia エピソード その1 1983年ごろ
高校2年生の時、京都の祇園会館で「父 パードレ・パドローネ」という
映画を観ました。
サルデーニャ地方の羊飼いの青年を主人公に父という権威と所有物の
ように扱われる主人公の青年の対立関係、そしてイタリアという近代国家と
サルデーニャという地方性の対立関係をユニークなリズムで描いた作品です。
といっても当時の僕にはさっぱり分からない難解な映画に映りました。
だって、それまでに知っていた映画といえばハリウッド映画が中心で、
起承転結がはっきりした文字通り「一般的」な映画ばかりだったからです。
この映画の冒頭は、映画の原作者となった言語学者のガヴィーノ・レッダ本人が、確か斧を持って小学校の校舎らしい建物の中に登場します。
「こんにちは、私が原作者のレッダです。19〜年、父が授業中に急に
教室に侵入してきて私を連れ去って行ったのです。私は羊飼いとして
育てられるために山の中に閉じ込められました。〜(略)〜。これが
私の父です。さぁ、これから映画が始まりますよ」
みたいな感じで、その斧を父役のオメロ・アントヌッティ(最高!!)に渡す。
そしてその父が意気込んで教室にいきなり侵入し、「羊飼いに学問は必要ない!」という理屈で、山に連れ去る・・・・というとってもユニークなファーストシーンでした。
僕は、このファーストシーンにいきなり「なんじゃこりゃ〜!」と感動したのですが
、一番衝撃的だったのは、ガヴィーノ少年が山に幽閉され(現代じゃ完全に犯罪で
す!)、羊との生活を始めるのですが、この羊がとっても意地悪で搾乳のときに
糞を乳のバケツに落としたりして、ガヴィーノ少年をとても困らせる。で、ガヴィーノ
少年もその羊を折檻したりするのですが、そうすると羊が意地悪な目をしながら、
あろうことか交尾をしだすんです。
その姿をじっと凝視するガヴィーノ少年。するとバッグで妙なあえぎ声のような
音声が流れ出す。すると今度はキャメラが村の少年達に向いて彼らは鶏小屋に
侵入してそこでマスターベーションしてる。ニコニコ笑いあって、また気持ちよさそう
に集団で自慰してるんです。
するとまたそのあえぎ声のトーンが上がっていく。するとその集団マスター
ベーション(なんじゃそりゃ!)をガヴィーノの父がロバに跨っている見ている。
そして思い立ったように「ハッ!」とロバに鞭を入れて家路を急ぐ。
家に急いで帰ってきた父を、ガヴィーノの母が見ている。父と母が視線を
交わらせると、母がすぐ理解したように寝室に急ぐ。すると父が寝室に
飛び込んできてこんどは人間の交尾が始まる。
すると今度はキャメラが村中を俯瞰するような角度から右から左へパンして
、そのころには「アヘアヘ」のあえぎ声が最高潮に達していて、
「おいおい村中、交尾かよ!」と言いたくなるようなすごいシークエンス。
(ある意味爆笑!)
映画館は異様な雰囲気でした。僕一人、興奮と緊張と、わけの分からなさ
から熱狂していたのかもしれませんが、このような露骨で面白いセックス
描写は初めてだったのでとっても新鮮だった。
そのあとガヴィーノ少年は、外の世界から届いた「音の世界」に目覚め、
父に反抗し、家を出て軍隊に入る。家=家父長制度から個人を解放し、
軍隊=国家のなかで自分のアイデンティティとしての生まれ故郷=地方、
というものに目覚めていく。
彼が言葉を獲得し、自らを解放していく感じ、強い父が老いぼれていく
様子や、軍隊で田舎者とバカにされながらも友情関係を築き上げて
いく様がグッと来て、所謂お涙頂戴の感動とはちがう、感動を味わった
ような気がしました。
またキャメラワークや色彩も独特の暗さと淡さを持っていて素敵です。
おそらく、この映画は「1900年」よりも前に観ていたと思う。だからイタリアを
意識しだした最初のエピソードとして導入しました。
愛 + セックス + 地方⇔国家 + 集団⇔個人
この映画には、愛とセックス、田舎と国、そして集団と個人と言う
テーマが自然に共存していて「人間性」の深さや面白さをユニークな
形で教えてくれる。ユニークとかインパクトの強さ=イタリアなんだ、
と若気の至りなりに考えていたことを思い出します。
その後、「カオス・シチリア物語」「グッド・モーニング・バビロン」や
「サン・ロレンツォの夜」「太陽は夜も輝く」「フィオリーレ」などで、日本
でも一貫した評価を得たタヴィアーニ兄弟監督ですが、この
「父 パードレ・パドローネ」は初期の荒々しい活力がみなぎっていて
、もっとも彼ららしい作品と言っても良いのではないでしょうか。
是非、一度見てみてください。リズム感がユニークできっと笑えます。

父 パードレ・パドローネPADRE PADRONE
この映画は同名の小説であり、日本語訳も出ています。とっても「元気の出る」
本です。イチオシしておきます!!是非、読んでね!
↓
父パードレ・パドローネ―ある羊飼いの教育 朝日選書 (528
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近江八幡 冬景色
僕にとっての近江八幡は、ヴォーリス建築でも新町通りなどの
古い家並でもありません。
これらは、確かに町の局所局所に存在していて、とっても魅力的だけど
その隣に新しい家や駐車場などが立ち並んでいて、イタリアの小さな町に
比べたら、とても「さもしい」気分にさせられます。(イタリアと比べること
自体酷かもしれないけど、同じ歴史のある国として、比べないこと
自体「甘え」なのかもしれないと思う)
人間は美しいものを感じるために生きているのではないか。
イタリアのそれと比べても全く迷いなく、クリアーに誇れるのは自然
環境だと思う。
その田園風景、安土八幡の水郷や琵琶湖の水風景・・・・これほど
僕を豊かで落ち着いた気分にさせてくれるものはない。
僕は、毎朝、息子を保育園に送ってから、その足で山登りに出かけます。
八幡山の麓にある保育園を出発して、葦が高々と広がっている
水郷地や城跡で有名な安土山を右遠くに見ながら車を走らせます。

遠く中央に安土山、手前が葦の風景
当たり前ですが、電信柱は見えません
ほとんど戦後から風景が変わっていないのではないかと思えるような
山裾の円山町や島町の集落は、本当に長閑です。

円山町・・・・・葦の博物館もあります

島町・・・・・分校のような小学校があります(^^;)

なくてはならない(?)焼却炉
山登りは、いつも琵琶湖に面した長命寺山と決まっています。
山の中腹の長命寺まで808段の石段があって、これが
最初ちょぴりハードでしたが、持久力を高め、足の筋力をつける
のに最適なコースだからです。
イベントやその準備に追われていない限りは出かけて行きます。

イベントの構想や新しいアイデアを考えながら登ります(笑)
写真を撮ったこの日はたまたま朝から雪が降っていて、車を走らせて
いる頃から晴れ間が出てきたので、デジカメを取りに
わざわざ家に戻りました。
とてもびっくりしたのですが、空は晴れているのに、いや
晴れているからこそか、山の中の石段を登り始めると、頭上の
木々から、まるでスチームバスのような水滴が落ちていました。
太陽の光で、木々に積もった雪が解け始めていたからでしょう。

時々、ボサッという音で雪がパラパラ落ちてきて
そこに太陽光があたる瞬間は息を飲むほど素敵でした。

黒々とした杉の緑、雪の白、空の青・・・・う、美しい!
長命寺は平安時代の建立ですが、その後何度か修復され
本堂に隣接している三仏堂は最近修復が完成しました。

釈迦さん、弥勒さん、阿弥陀さん拝めます

国宝の本堂、重要文化財の三重塔など・・・・
なんとも幽遠な世界ですが、こちらは汗だくヒ〜ヒ〜です(笑)
「おはようございます!」と、さわやかに挨拶しようと
するんですけど、こちらのお坊さん、結構無愛想です(^^;)
お賽銭をあげ、
「目標達成、家族の健康、皆の幸せ、ヨロシクね!!」
と一声かけて、立ち去ります。

眼下の琵琶湖
車で出ると5〜10分ぐらいでこんな風景に出会えるって
本当に幸せですよね。
そんな静かな充実感とともに楽しい企画を練っています。
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